介護士こじらせ系

Bandcampとユマニチュードが気になる介護職の雑記です。

介護のやりがいである「感謝」は他では得られない質感のもの。

こんばんは。今日からケアマネ向けに提出する書類を書き始めていますが、思いのほか進みません。利用者それぞれの顔を思い浮かべれば書くべき事自体はそれなりに浮かんでくるのですが、それを率直に書くべきか書かないべきか、あるいは表現をやんわりと書くのか…なんともしょうもない悩み方をしているところです。その辺の理由は以前記事にしました。

 

 

介護記録の正直さと経営の狭間。 - 介護士こじらせ系

 

この辺については今日もまたこれに悩まされる事があって、改めてうまくいかないなーと実感したところです。難しいところですよね。こういったちょっと押し進めて行くと出てくる煩わしさというのが、よく介護の世界でやりがいとして挙げられる「相手にとても感謝される」という大事な側面を削いでしまっているのでは?とちょっと思ったりします。ざっくり言ってしまえば、正直者が馬鹿を見るような状態だと言う事です。

 

そんじゃあそういった「感謝される」っていう事が魅力とはなり得ないのか、といえば、それは絶対にないわけで。

 

 

介護現場において「感謝される」っていうのは、おそらく他の業種で仕事中に受ける「感謝」とは質感が違うと思うんです。

 

例えば取引先の担当者からされる感謝というのは、あくまで窓口レベルの話でしかないわけです。

例えばその窓口が社長だったとすれば、一担当者レベルではない以上その人の生活に関わってくるくらいのレベルの感謝になりますが、極端にいえばその人の生き死にに関わるわけではないんです。

 

 

介護職の場合は、サービスを受ける人、つまり利用者の「死」というものが確実に付き纏ってくる仕事です。利用者の最期に向かってどのように進んでいくか、一つの側面としてそこに生活レベルから付き添って行くのが介護の仕事だと解釈しています。

 

 

亡くなられた利用者のご家族が最後にご挨拶に来られるのを見るたびにその重みを実感します。特にうちの場合は重度の認知症の方たちをデイサービスとして受け入れているので余計にそうなのかもしれません。

 

 

よく、仲の良かった利用者が亡くなられて仕事が手につかない、なんて話をよく介護実習の場面で聞く訳ですが、逆に言えばそれだけ跳ね返ってくるものも多い仕事であるといえます。

先にビジネスの場での例を挙げましたが、別段それを介護に比べて軽い、と言うわけではありません。ただ、介護の世界で受ける「感謝」は、そういった場では得られない異質なものです。同じ質感の感謝は、とある実習で障碍者施設にいった時、児童の母親から深々と頭を下げられた時に感じたくらいですね。あの時感じた、はっとさせられるほどの思いというのは絶対ビジネスの世界では味わえないですよ。

だから、介護のやりがいとして「感謝される」というのを聞いたとき、特に他業種の人は、それくらいしかないものな、なんて軽く受け取らないで欲しいのです。

 

 

今日はこちらを聴きながら記事を更新しました。80年代のJ-POPミックスですが、半分以上分からない(笑)


DJフクタケ(福田タケシ)の80's J-POP MIX@アシパン(7" Vinyl Only)2012.1.1 by DJ fukutake - Hear the world’s sounds