介護士こじらせ系

Bandcampとユマニチュードが気になる介護職の雑記です。

大好きな身内の死を意識してやっと、介護家族の気持ちに少し触れられた気がした。

当然と言えば当然なんですが、介護という仕事に関わっていれば一番接点をもつのは高齢者です。そしてそこには大抵、その高齢者の家族が関わってきます。

これまで僕は利用者の「死」について考えた記事を書いてきました。

 

悲しい事が悲しいと素直に言える介護士に。 - 介護士こじらせ系

 

こうしてブログを始める前にも当然、利用者の死には触れてきたわけで、亡くなってその利用者に思いを馳せる事も、そうした家族に接して話をする機会もない事はなかったわけです。仕事として介護を続けている限りはそうした機会はこれからも訪れる事でしょう。

 

上に取り上げた記事でも書きましたが、仕事とはいえ様々な介助の場面で直接触れ合う機会もある方の死です、悲しさは当然訪れます。死は重いものです。

 

 

でも、今の僕の中には、まだ介護をしてきた家族への思いが足りていなかったんじゃないか、という気持ちが充満しています。

 

 

 

先ほど家族から連絡があって、僕の祖父に癌が見つかった、とメールで知らされました。まだ詳細は分かりません。年明けにも入院するそうです。

 

 

 

これまで身内の死がなかったわけではありませんが、祖父は特別大好きな存在だったのでショックが大きく、動揺しています。ちょっとどう気持ちを整理していいか分かりません。

地元を離れている僕にとっては今や年に一度程度しか会えない存在ではありますが、衰えは意識してもその先の死までは到底想像出来ないような人です。年齢からすれば死を意識するのは自然なんですけどね、いざ癌という事実を突きつけられると全く消化出来なくて。

 

 

身内の死を意識して改めて、介護職として高齢者の死に接している自分の意識が低かったのか思い知らされるばかりです。

家族は死の覚悟や気持ちの整理をし、かつ日々衰えていく高齢者を目の当たりにしながら介護を続けているんですよね。認知症の要素なんかが入って来ればそこに輪をかけてかつて健康だった時の姿と比べてしまったりと気苦労を更に重ねながら。

 

自分にその気配が近付いてきて初めて、そんな家族の気持ちに少しだけ触れられたような気がします。

 

 

介護職として、甘かったなあ、軽々しかったなあ。

 

 

自分なりに真剣に向き合ってきたつもりではありますが、全然ダメですね、本当。自分に降りかかって来ない限り相手の気持ちも理解出来ていないだなんて。

 

介護職というのは、資格や数字としての介護歴〜年というものより、その人の人生経験そのものが問われるような仕事のような気がします。身近な人の死に際しての悲しさはもちろんの事、そうした感情を超えて、時に親にすら死んで欲しいと願ってしまう介護者のあまりに深く入り組んだ感情は、人生における様々な場面で潜ってきた感情の数の多い人にしか本質を理解出来ないのではないでしょうか。表面上介護という仕事は同じく出来ますけどね、家族に本当に信頼される介護職というのの一つの要件は、そうした部分なのかもしれません。

 

 

あーだこーだ分かったように語っていますが、介護職として冷静に仕事への向き合い方の反省をさせている自分が、家族として無理してでもすっ飛んで帰りたい自分の気持ちを抑えている、そんな状態が今の僕です。本音は、何をどうしていいかさっぱり分かりません。

落ち着いたら、一旦帰省しよう。