保育と介護は近くて遠い
介護と保育の世界には、明確にではないけれども、緩やかに共通点を見いだす事が出来ます。特にデイサービスに関して言えば基本的な流れはかなり近いものがあります。そんな共通点の多い仕事だからこそ、保育から介護に流れる、あるいは部分的に携わるような人は少なくはないのでは、と思うのですがどうでしょう?うちの職場にはそうした流れで介護に来た人が3名います。また友人でも、保育の世界から介護の世界に移ってきた人がいます。
幼児退化するように、高齢の利用者の行動が人によって幼稚になっていくのも介護と保育を近づけていく要因なのかもしれません。時系列を取り払い、”今”を見つめる時に、最もこの2つは重なり合う部分が増えてくるのでしょう。
大きな時間の流れを両者を見つめる視点に加えてみると一気に正反対のものになります。かたやこれからそれぞれの将来に向かって成長していく、いわば未来志向の子供たち。かたや人生の終末期に向かってその大きな流れを閉じていく高齢者たち。
同じ人間である以上、高齢者にも等しく将来を思い描く権利がある、という考え方もあります。当然の事です。当然の事なのですが、子供たちとの比較、あるいは介護を行う家族、親族や近隣の人々との関係性の視点から見ていくとそうした考え方が少し現実味の薄れた、理想にやや寄り過ぎた考えのようにも思えてきます。
社会との距離感というものが浮かび上がってきます。教育によって社会性を獲得し、成長していく子供たち。社会性を維持する事でそれまでの自分を維持する高齢者。そして、様々な事情から社会性を損なっていき、それに伴って徐々に衰えていく高齢者たち。
それぞれが持ち得る「社会との繋がり」への経路を失い、地図をなくしたかのように右往左往してしまう様を徘徊だと考え、書かれたのが坂口恭平氏の「徘徊タクシー」なのであれば、少し擬似的だとしても高齢者の社会性への経路を繋げる徘徊タクシーはごくごく全うな行為なように思えるのです。
介護施設という枠組みの中で、家族やケアマネの意向という原則の中で、それらが時に安全性や家族の負担を考慮し、あえて社会性を断ち切るような方向性を打ち出していたとしても、現場サイドが個人個人の向上のためにやるべきことは何なのか。
友人に子供が生まれ、お祝いを考えています。人にものをプレゼントするのは好きです。その人の事を考えながら、その人に合ったものは何かと考えるのがとても楽しいのです。
ここ最近利用者が亡くなられたり、入所して離れてしまう事が続く中で、そうした事と正反対の赤ちゃんへのプレゼントを考える機会が出来たので何となく比較して色々と考えてしまいました。答えのない、難しい問題ですね。
赤ちゃんで思い浮かぶのはこの曲。七尾旅人の曲ですが、このUAのカバーもいい。子供の成長の一つ一つがとんでもなく大きな事で、素晴らしく喜ばしいのだととても強く感じさせられます。静かな曲ですが、込められた感情の熱量が非常に高く、感動します。