介護士こじらせ系

Bandcampとユマニチュードが気になる介護職の雑記です。

ディテールにこそ、愛情は宿る。

いつも思っているのですが、介護について語られる時に、綺麗事や美談、あるいは情熱だとか社会貢献だとか、そうした極めて抽象的な表現が出されるのは本当に嫌いです。以前記事に取り上げた事のある介護甲子園みたいな、「暖かい心」「ご利用者様から頂く感動」などという一見美辞麗句に聞こえて実は何一つ中身が感じられない言葉で介護のイメージアップを図ろうとする動きなんてのは寒気がするくらいです。そうした動きの代表格であるワタミグループの介護部門が売りに出されたなんて話は、「やっぱりな」くらいにしか感じられないわけです、個人的に。

kaigokojirase.hatenablog.com

 (今年もやるみたいですね。はは、すげーや)

 

そこで使われる美辞麗句、壮大な言葉。言葉のサイズが大きくなればなるほどに、そこには乱暴に捨象される余りにも膨大なディテールが存在している事でしょう。そして僕たち介護職の人間は、そのディテールの細かな変化から利用者の変化、回復、衰えを察知していかなければならないわけです。

言い換えれば、美辞麗句や壮大な言葉とは、そんなディテールが積もりに積もった上で本当に美味しいところだけを掻い摘んだ結果の表現だとも思えます。いいとこ取りですね。だからうんざりしてしまいます。

 

 

僕が介護において凄みを感じる瞬間というのは、ディテールをとにかく沢山語れる人に会う時です。

 

 

介護職に関してだと、医療にも関わってくるような身体状況について詳細に知っているというだけでなく、1日1日での表情、言葉遣い、何に反応して、どんなものに特に興味を抱いて、など、挙げればきりがないほどの要素において比較の基準にする事が出来ます。もちろん施設の規模やその人の役割によってある程度左右される部分があるので、単純な比較は出来ませんが。

 

 

家族介護者に関してだと、僕の少ない観測範囲からすると分かりやすく差が表れます。様々な状況、家庭環境があるので介護者を決して批判は出来ませんが、利用者ご本人をちょっと見ただけで読み取れるものです。

 

 

うちの施設に関して言えば、大前提としてご本人が大変な状態であっても在宅で出来る限り介護をする、というご家族が利用されるので、どなたからも凄みを感じてしまいます。例えば、

「午前2時頃独り言を喋っていた」

「午前4時くらいには起きて徘徊するので付いていった」

なんていう、一体いつご家族は寝ているのか、と思わされる事を朝の送迎時に報告いただいたりするわけです。介護者ご本人の生活時間の、決して少なくない時間がそうした事実の一つ一つに費やされているわけです。

その話ぶりは人によって様々で、笑い飛ばすかのように努めて明るくお話される方、疲れがにじみ出てため息まじりに滔々と語る方、もしや介護鬱?と思わされるが如くマシンガンのように矢つぎ早に語る方、淡々と事もなげに語る方も。

表現は様々でも、語られるディテールの細かさからは一様に凄みがありありと伝わります。

 

 

個人的にいつも思っているのは、愛情はディテールにこそ宿る、という事です。何かのマニアが自分の分野についてびっくりするほど詳細に喋り倒す様子を想像してもらえれば分かりやすいかと思います。マニアがマニアたる所以は自分なりの視点でディテールを追求していく事です。

 

 

だから、僕は送迎時に介護者から聞かされる情報の一つ一つを時間が許す限り聞いていたいと常に思っています。例えそれが非常にヘビーな愚痴っぽい内容、言い方だとしても、そこにあるディテールからは介護者が利用者に向ける愛情をどうしても感じるからです。そしてそれが顕在的なものでも潜在的なものであっても、応えるのが職業介護者の義務でもあるからです。

 

 

もし介護職という仕事の一つの重要なポイントを乱暴に捨象してまで語るのだとすれば、ポジティブであれネガティヴであれ、家族が発する利用者への愛情を職業としての介護の観点からご本人に還元する、という事になるでしょうか。そこには抽象的な綺麗事の言葉はありません。ただただディテールを一つ一つ、です。

 

僕もまた、ディテールを感じ取れる人、表現出来る人にならなければと思うわけです。