やさしい介護の害悪
先日買った現代思想、ちびちびと読んでおります。こういう文章慣れてないので読み進むのが遅くて遅くて。
ちと気になった記述があったのでそこから記事にしてみようと思います。
もう一つ気になるのは、教育や介護する人たちの数の問題もさることながら、それとは質が違う問題である。介護者たちは、一様にというかある意味過剰にやさしい。やさしく丁寧に接することが最優先されているように見えるのである。企業でよく実施されていた接遇研修を思い起こす。だが、人としての尊厳を守ることと、必要以上にやさしく接することとは違う。介護者たちの疲れの底にあるのは、このやさしくあることからくるストレスなのではないのだろうか。
ー現代思想 2015 vol.43−6【特集】認知症新時代 「認知症を巡る問題群」阿保順子 より
優しさは間違いなく必須の要素だと思います。が、確かにここで言われているように、優しさが全てに優先されてくるようではダメだよなーとは常々思っているのでこれには同意です。それは、介護者の疲れの元、というだけでなく、利用者の為になるかどうかについても同様です。
利用者の為に、という視点からいくと、相手を選ぶというのが大前提ですが、僕は利用者に対して結構厳しめに当たる事もあるし、あだ名っぽく呼ぶ時もあるし、勿論内容は選ぶけどネガティブな事も平気で言います。それは、利用者にどう届くかを最優先に考えるからです。
自分で出来る事をやらなくなる事で出来なくなってしまうのであれば、多少厳しめに当たってでも自分でやってもらう方が本人や介護する家族の為になると思うし、少しでも声掛けに反応出来るという点を最優先するからだし、人によってはネガティブな内容の方がかえって笑顔を引き出せる可能性もあるからです。
「それくらい自分でやる!」と突き放し、
「〜ちゃん行くよー」とラフに声掛けし、
「それ全然ダメじゃん!全然出来てないよ(笑)」と笑いにしてしまうわけです。
ある意味ではただ優しくいるより神経を使います。使いどころを間違えたら一発でアウトですから。でも、優しくある事に縛られているよりかは確実に選択肢があって、そうであるが故に縛られないという意味でのストレスも少ないです。少なくとも僕は。
また介護者の視点からいくと、優しさに縛られる、あるいはサービス業的に介護を捉えすぎてしまうのは、少し間違うと根本的な人と人とが接する仕事であるという事から離れてしまうのだと思っています。ドライになりすぎる。
サービス業的に考える事の一番のメリットはおそらく提供できる介護の大半をマニュアル化出来てしまう事でしょう。マニュアルは必要ですが、だからこそマニュアルから離れて出来る良い介護がないか考えるのが重要です。毎日通う店で同じコーヒーを飲む人が同じ店員にいつまでも同じ事を聞かれていてはストレスでしょう。勿論そうでない人もいるでしょうが、そうでない、という事を読み取る事はマニュアルではないはずです。
優しさというのは、マニュアル化されるものではありませんが、それ以前の明文化されない、介護なら、というところから勝手に定義される不文律のようなものな気がします。介護という仕事に就く人がそれに無意識のうちに縛られるのは勿論の事、社会が介護職を見る目も介護職なら高齢者にやさしい、と縛り付けているようにも思えます。ストレスですよそんなの。
やさしいから利用者からの暴行に笑顔で耐えられるわけじゃないし、傷ついても怪我をしても平気なわけではないんですけどね。
介護でのやさしさは、少しでも行き過ぎるとあらゆる意味でおかしな方向に向かってしまう危険なものだと思うし、それなら自分のもつやさしさ以上のやさしさを装う必要なんて全くないと思ってます。