介護士こじらせ系

Bandcampとユマニチュードが気になる介護職の雑記です。

介護職を経験して、「風立ちぬ」の見え方が変わった

風立ちぬ」、いやー良かったですね。僕は公開当時映画館で観て、今日のテレビ放映が二回目の視聴でしたけど殆どのシーン覚えてました。大好きなジブリ作品の一つです。

 

ところで「風立ちぬ」を映画館で観た時は確かまだ介護を始めて間も無い時でした。で、今回はある程度介護職として経験を重ねた上で観たわけです。今日観ていて、初見の時とは違った角度での感想を抱いたのでその辺を書いていこうと思います。

 

キーワードは「食べ物」です。

 

ジブリといったら作中の食べ物が死ぬほど美味そうに描かれるのが常じゃないですか。作品名を羅列するまでもなく、ジブリが好きな人なら何かしら思い浮かぶシーンがある事でしょう。これまでの作品に登場する食べ物は、登場人物が満面の笑みを浮かべて本当に美味しそうに口に頬張っているなど印象的に登場する事が殆どで、観る人にもその美味しさが伝わってくるようなものばかりでした。実際、映画をもとに再現する人なんかもいますしね。

 

でも、「風立ちぬ」にはそんなジブリ作品の慣例とも言える美味しそうな食べ物のシーンが見当たりません。食べ物でひねり出しても、シベリヤと鯖、クレソンくらいですかね。細かく観ていけば、加代が黒田家を訪れ二郎を待っていた時のお茶請けの梅干とかでしょうか。幼少時代から始まり、学生時代の定食屋にも、名古屋に移ってからの喫茶店や社員食堂、ドイツ、軽井沢、黒田家など、様々なシーンを思い返しても美味しそうな食べ物はさっぱりです。

 

「食べ物」の視点から見ると、これまでの作品と「風立ちぬ」は対照的です。

 

一番分かりやすいのは「ルパン三世 カリオストロの城」の、負傷したルパンが食べ物を要求して一気に食べるシーンです。食べる事で大怪我を一気に治してしまうルパンの姿は、食べ物が、いや食べる事が生命力の象徴であるかのような印象を強く与えてくれます。だって食ったら治っちゃうんだもん。

それに対して「風立ちぬ」では、菜穂子が食事を摂るシーンは皆無だし、二郎が路上の貧しい子どもにシベリヤを差し出しても拒否されたりと、食べるという行為自体がかなり避けられている印象を受けます。数少ない本庄と二郎の定食屋のシーンだって、本庄が二郎を急かしていて、とても美味しそうだなんて言えません。ただただ腹が減ったから、と儀礼的に食べているようにすら映ります。

 

介護の話を少しすると、高齢者で、死ぬ直前までばくばく食べる人って突然死みたいな形でもない限りいないでしょう。食事の摂り方というのは分かりやすくバロメーターの一つになるし、だからこそ普段の食事の量を確認したり、少しでも食べやすいものを探したり、形態を工夫したりと介護職は考えるわけです。

 

そんな介護的な観点を通過してからだと、食べない、っていう事から生命力の薄れを感じます。それは、菜穂子が最後に死を迎えるという事を「風立ちぬ」という作品全体が表しているようにも感じられるし、比喩的な意味で、アニメーターとしての宮崎駿の終焉、引退を表しているようにも思うのです。