介護士こじらせ系

Bandcampとユマニチュードが気になる介護職の雑記です。

治さなくていい認知症、に賛成なわけ。

こんばんは。一気に冷え込んだ気候についていけない僕の部屋にはいまだに片付けられていない扇風機が妙に浮いていて変な感じです。早く片付けろって話ですが、汚れを取ったりするのに意外とやる事があるので安易に片付けられないんですよね。

 

 

僕はTumblrをよく見ているんですが、今まで介護で調べた事がなかったので試しに検索してみました。ここで介護系の記事を書かれている方も結構いるんですね。個人的にTumblrってかなり好きなので、なんかうまい使い方ないかなーとちょっと考えてみようと思います。

そんなTumblrで見つけたちょっと前の記事から。

 

「治さなくてよい認知症」を日本へ | Medエッジ

 


「治さなくてよい認知症」の真意 | Medエッジ

 

月一回の更新の連載インタビューのようですが、ビックリするくらい同意だったので取り上げてみました。

 

特にこの辺ですね。

現在の認知症の人の経験はこうです。

 家庭内では、家事で頼りにされていたのに、「何もしなくていい」といわれる。

 老人会では急に役割を解かれる。

 ゴルフで鍵を繰り返し紛失。「もう行けない」と思えてしまう。

 一方で、病院にいくと「アルツハイマー病」と言われ、家族は納得するも、本人としては釈然としない。

 診察では、日付や場所、計算を聞かれて、間違いを指摘されてばかり。

 家族は自分の失敗談のような恥ずかしい話を医師らに話す。本人はいたたまれない気持ちになる。

 医師らは認知機能の低下を食い止めようと、リハビリをしたり、薬を使ったりする。医師も家族も治さなきゃと思うが、本人の認知機能は悪くなっていく。

 医師も家族もあきらめはあるものの、なすすべがないところに不満が募っていく。 

 

認知症と言うと、脳や神経ばかり見ているのが実態です。認知症を疑われている本人の心理的な葛藤には、医師が本当に目を向けていません。本人の生活、心理的なケア、介護といった問題は、自分たちの仕事ではないと考えている節がある。

 脳や神経の研究ならば、認知症を治そうと考えてもいいのです。

 しかし、現実、認知症の人と向き合ったときは、脳や神経の病気だけではなく、生活、心理的なケア、介護なども考えないと治療放棄と同然です。

 認知機能の低下は止められないのですから、治そうとはしない。代わりに、本人の心情に寄り添って、元気で楽しく生きていけるようにしていく。

 結果的に、本人が穏やかになって言うことも聞いてくれるようになります。ある面で介護しやすくなると考えています。 

 どちらも後者からの引用です。

 

いつも思うんですが、過剰なサポートというのはその人から自分の役割だとか、出来る事をより早く奪っていくような感じがして凄く嫌なんですよね。例えば入浴一つとっても、その人が出来るはずの衣服の着脱を、時間がなくなるからという理由である程度強制的に職員が手伝うとか、何かしらの理由があって「もっと入っていたい」とごねる利用者を強制的に湯船から出したりとか。

 

前々からこういうところに疑問を感じていました。高齢者の気持ちが折れるというか、出来ないものだ、やらなくていいものだ、と思わせてしまうところから本当の衰えが始まるんじゃないか、と。一応初任者研修の流し聞きのような講義でも言っていたような気がしますが、こういった事は実際に目の当たりにしないと分からないですよね。

 

 

認知症は治さなくてよい、という表現が少し解釈をゆがめてしまっているような気がしますが、介護職として、デイサービススタッフとしてはこの辺の考えを押さえなきゃいけないよなーと思います。

 

またこれについては別に書いていこうと思います。