介護士こじらせ系

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介護を単純なサービス業にする風潮が大嫌い


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こんな記事がありまして、ほーっと思いながら読んでいました。細かなツッコミ含め色々思う事はあるわけですが、「心のこもった」「理想の」介護なんてあるのか?とふと思ったわけです。なんとなく違和感を覚えるというか。

 

 

大抵、こういう記事の中でこうした「心のこもった」「理想の」みたいなポエミーな言葉が使われるのって、つまるところ介護が単純にサービス業とみなされているからってのがあると思うんですよ。ホテルだとか飲食店と同じような。分かりますよ、毎月利用料を頂いている以上、ご家族や利用者には一社会人として礼儀正しく、言葉遣いは丁寧に、要望や意見を伺い、クレームには真摯に対応して。

でも個人的にはどこかしっくりこないんですよね。ただサービス業って紋切り型に言われてしまうと。

 

 

なんなんだろう、と考えて出てきたのは、利用者を生徒に見立てた時の予備校と学校の違いなんだろうな、という事でした。

塾はあくまで生徒の学力を上げるという目標に特化したサービス業ですが、介護はそうした一つの目標だけに向かっていくものではないですよね。都度変わっていく状況に応じた目標設定があり、また様々な方向性の目標が設定されるという意味では、利用者を学校の生徒に見立てた方がしっくりきます。

 

 

予備校にしろ学校にしろ、人の人生に直接的に関わるという点では同じですが、学力アップに専念する予備校とは違って、学校は学力はもちろんの事、人格形成だったり集団生活だったり人間関係だったり将来設計だったり運動だったりと学ぶべき事、目標とすべき事が多岐に渡ります。下手したら学校にいない時間の事も常に把握している必要があります。そういったあらゆる要素にたった上で教師は生徒に接していかなければなりません。そして関わりが濃密になる分、他の職業に比べて教師の人格自体も強く問われます。

 

 

予備校講師の場合は、基本的にはいかに生徒の学力を上げられるか、という一点が勝負になるわけです。本当に一流の講師ならともかく、ある程度の講師になるためなら学力を上げるスキルさえあればその講師がクソ人間だったとしても全然なりたつわけです。求められるものを満たすわけですから。

 

同じ教育という分野でも、問われる資質にかなり違いがあるわけです。一点集中、特化するのか総合的にみるか、の違いです。

 

 

介護に話を戻すと、介護サービスを提供する側がサービス業であると意識すればするほど、こうした予備校的な感覚になってしまうのではないでしょうか。何かに特化したサービスになるような。でも介護は目標を一つに定めてサービス提供するような特化型のものではないので、一言でのアピールは出来ません。それを無理に言い表そうとするから、あんなポエミーな言葉が飛び出すような気がします。以前取り上げた介護甲子園なんてまさにそのまんまですよね。

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要介護者を抱えるご家族からしたら、介護における様々な課題や目標に幅広く取り組んでもらえる学校教育的サービスを求めているのに、提供側は予備校的サービスになってしまっているというミスマッチがあるのかな、と思います。

提供側、という表現をしたのは単に事業者を指すのではなく、国の介護サービスに対しての考え方もそうだと思うからです。厚労省はともかくとして、財務省の姿勢はまさにそうでしょう。

 

 

僕は、介護を単純なサービス業に押し込める風潮が大嫌いです。サービス業にしちゃえば儲けようとするに決まっているし、その儲けに蓋をしてしまえば次はコストを削るしかないですから、当然サービスの質なんて下がるに決まってますよ。

日々の接触、朝の挨拶から食事、入浴、排泄、雑談、付き添い、レクリエーションに体操に加え、逐一状況を観察しながら認知や衰えの進行を見つめていく中で初めて総合的にどう介護をしていくか、何が出来るかがわかるし、それこそが対外的にアピール出来る要素であるべきです。ポエミーな言葉で単純化してアピールするのなんて面汚しのくそったれでしかない。

 

 

なんだかまとまりがなくなってきましたが、要するに介護においての理想、なんてものは一言で言い表せるわけもなく、下手に言い表しても陳腐なものになるのでろくでもない、というわけです。