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介護士こじらせ系

Bandcampとユマニチュードが気になる介護職の雑記です。

介護によって権利擁護が権利を制限する時

介護という仕事をしながらある時ふっと思い出した映画がプライベートライアンでした。

プライベート・ライアン [DVD]

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 小学生の時、一度きりしか観ていない映画なので細かい内容までは覚えていないのですが、その時抱いた感想は今でも忘れられないし、大人になった今でも答えの出ない大きな疑問として残っています。それはつまり、

「一人の命を救う為に何人もの犠牲者が出るのは正しいのか否か」

です。当時友人に話をしたら、「なんで?良い話じゃーん」の一言で終わらせられましたが、少なくとも僕にはそうは思えませんでした。名作としての方が通りが良い映画だとは思いますが、僕にとっては文字通り「迷作」だったわけです。

今考えると、その時感じた事が実はそのまま今の仕事の中での考え方に通じているのかもしれません。

 

 

 

ところで、言うまでもなく介護における虐待はあってはなりませんが、先日こんな話を聞いた時にはちょっと驚かされました。

水分や食事を摂る事が難しくなった家族の様子をしばらく見ていたら、ケアマネからは虐待になるからすぐにでも受診させろ、と言われたという話でした。

 

ケアマネが言わんとする事が分からないわけではありません。分からない事はないけれど、悪気がないのは分かるんだけれど、ちょっと浅はかすぎやしませんかね、と思ったわけです。

どんな状態であっても、出来る限り個人の意思を尊重するというのは考え方としては最早常識です。これを否定するのはそうそうありえません。僕だって当然そうです。当然ではあるんですが、時々ちょっと俯瞰するように引いて考える時があります。先に挙げた話がその分りやすい例です。

この話をそのままこの情報だけで見る分には虐待かな、と考えるのは自然なように思えます。ですが、実際のところ介護における殆どの事例の中でこんなちょっとした情報だけで判断を下す事はありえないですよね。そこに至るまでの介護歴から家族の構成、関係性など、ほんの少し掻い摘むだけでも言葉以上に知らなければならない事がたくさんあります。

その方の話からすると、介護の方向性について散々家族で話し合って、経済的な観点も含め最終的に家庭で介護する事を選び、日々の通院の送迎やら通所介護の段取りをとって、考えるだけでなく相談などで散々役所やら施設を巡り、疲労やストレスで経済的に無理と判断した入所を、それでも今の状態から解放されるなら、と思うくらいに考え直したりと追い詰められながら最期まで看取ったわけです。全てを語られたわけではないと思います、この程度では。本当にしんどかった、とおっしゃってました。

ある程度以上の知識があったとしても、いざ自分の身に降りかかってくると非常に大きなストレスを感じさせるのが介護です。終わりの見えないトンネルの出口はその方の死です。自らの生活が犠牲になったとしても解放されたい、と考える程度には追い詰められる事もおそらく珍しい事ではないでしょう。

そんな方の状況を知ってか知らずか、目の前の光景だけを見て虐待だ、と指摘する事に強く浅はかさを感じたわけです。

 

 

高齢者の虐待で調べると、様々な事例やパターンがたくさん出てきます。そのどれにもケチをつけるつもりは毛頭ありません。ただ、そうした事例を個人の尊重の名の下に絶対的なものとして捉えてしまうと、決して小さくない歪みが生じるような気がします。今回の話でいけば、高齢者を尊重するが故に周囲の介護者の権利や感情や生活や経済が制限されてしまっているわけです。

 

要するに、「介護が必要となった高齢者の尊厳は、周囲の人々の尊厳が犠牲になっても絶対に守られるべきか」という疑問が僕の中で消えていない、という事です。個人の尊重、という言葉を聞くたびに、そうした感情が湧き出てきます。

 

昨今問題になっている介護離職なんて、まさにこの辺の落とし所がないが故に起きている問題な気がします。

 

 

公共の福祉、という中学生が社会科で習う用語があります。尊重されるべき権利がぶつかり合う時に権利が制限される、という憲法上の概念だったと思います。介護における権利と権利がぶつかり合う時の落とし所というのを、利用者だけでなくその家族も同じく注視しながら仕事をしていこう、と改めて最近思うのです。