介護士こじらせ系

Bandcampとユマニチュードが気になる介護職の雑記です。

終わりのライフログ

僕は終わりが感じられたからそれに応じた行動をして、だからこそ今回結果としてあまり後悔の念を感じる事はなかったのですが、他の人はどうだったのだろう、と振り返り、考える夜です。

漠然とここが終わりかな、と感じるとそこから逆算して行動が出来ます。介護であれば、その起算点から先は何もありませんから、訪れるであろう起算点に対してやれる事を出し惜しみせず行う事が出来ます。勿論、状況は一転するもので、こちらが勝手に想定する起算点なんてものはいくらでも変動してしまいます。ですが、近づけば近づくほどおおよその予測は可能です。終わりの知らせは悲しかったけれども、後悔はなかった。

あの時これが出来ていれば、こうしてあげられればという感触がなかったという事です。これから先に訪れるであろう、梅や桜が咲き誇る並木道を連れて出歩く事も、青々とした木々を眺める事も、梅雨の少しの間の晴れ間に紫陽花を手にとって淡い色彩に触れる事も、ジトッとした汗をかきながら街の片隅の向日葵の鮮やかさに目を奪われる事も叶わないのですが、先の叶わなかった楽しみは他に傾ければ良い事。

様々な介護の形がありますが、こうした仕事をしている以上、終わりを悟ったのであれば思いつく限りの事は出し惜しみせずにいたいものです。

 

 

 

利用者が亡くなる時、介護士として、淡々とやり過ごすべきでしょうか、それとも一人の人間として悲しむべきでしょうか。

 

 

僕は、こうした疑問に常に答えを出せず揺れ動くうちが正解なのだろうと感じています。ただ悲しむうちは介護士として未熟だと思うし、淡々とする事は感情の死を意味すると思いますから。

悲しむ自分と理性的にやり過ごそうと思う自分が揺れ動きながら徐々に落ち着くべきところに落ち着いていくのが良いのかな、とは今のところの思うところです。

きっとその時、人、タイミング、自分の行動によってその落ち着くべきところは都度変わってくると思います。地味ながらもやれるだけの事を出来たかな、と思えた今回は比較的淡々とした感情ではありました。だからこそ、今の自分に妙な慣れを感じてしまって、それはそれでダメだなとも思います。

 

 

せっかくのブログですから、その時々の気持ちの移り変わりをライフログ的に残していくのも一つなのかな、と思うのでこれからも似たような事を書いていくかもしれません。