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介護士こじらせ系

Bandcampとユマニチュードが気になる介護職の雑記です。

同じ事をただただ繰り返すのはリハビリではなく拷問だ

最大の拷問とはなんでしょう。死刑でしょうか。いや、死んでしまえば終わるという意味では終身刑のほうが、なんて。

いや、そんな話ではないんですがね。

拷問を与えるに当たって、何が一番の苦痛となるのでしょうか。こればかりは人によって様々でしょう。

 

 

一つの答えとして存在するのが、ドストエフスキーの作品の中の一節です。以下、引用です。

ドストエフスキーの『死の家の記録』に究極の拷問という話があります。それは「無意味な労働」のことです。
半日かけて穴を掘って、半日かけてまた埋めていく。その繰り返しというような仕事に人間は耐えられません。

http://eternityscape.tumblr.com/post/45003840250から。

つまり単純作業を繰り返す事が最大の拷問になってしまう、という事です。

 

 

やり始めた事をまた始めから何度となく。それは見せられた終わりをあっさりと崩され、何度も何度も振り出しに戻されるという苦しみが如何に重たいものかを表しています。

 

介護施設を利用する高齢者にとっては、認知症を患った高齢者にとっては、自分の残存能力を保つ、という意味では同じ事を訓練のように繰り返す事は有効であるように思われます。維持、ですからね。

本人が出来るから、という理由で僕たち介護士も保つ、という意味合いから繰り返し同じ事をやってもらうような場面はあると思います。

 

 

ですが、そこには認知症で忘れてしまうから、とか、同じ事でも意味があるから、と勝手な意義を見つけ出してそれを押し付けている側面がある事も忘れてはいけないような気がします。そう、同じ事の繰り返しが最も辛い拷問になりえるという事があるわけですから。

健常者にとって同じ事の繰り返しが拷問となりえるのであれば、無意識的に同じ事を繰り返してしまう認知症の利用者にとってそれは、知らず知らずのうちに拷問を受け続けている事に他なりません。介護者が拷問している、とも言い換えられます。これなら出来るから、これは続けられるから、これならほっといてもやってくれる、はただの怠慢ではなく、緩やかに利用者を介護者が衰えさせている事になってしまうのです。

 

 

ごくごく小さくても、利用者にとっての変化を見出してあげる事が、示してあげる事が重要だと思います。大義名分を大げさに変える必要はありません。小さな目的意識を声掛け一つで矛先を変えるとか、日常の一場面に取り込んでしまうとか。

 

高校生の時、部活の時に言われた事を思い出します。

ストレッチの時は、どの部分が伸びているか意識してやれ

と。

 

介護の場面では、最終的には付き添う介助者がその動作の動きを分かっていれオッケーだとは思います。ですが、その最終段階になるまでは、利用者にマンネリを感じさせないよう、様々な場面において介助者が変化を付けるよう創意工夫する事し、利用者に意識させる事が日常動作を結果としてリハビリたらしめると思うのです。