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介護士こじらせ系

Bandcampとユマニチュードが気になる介護職の雑記です。

重度の認知症になるのなら安楽死したい

以前にも書いた事ではあるのですが、目の前の認知症の進んだ利用者を見ていると、自分は認知症になっても平気か、と考える事があります。人生の終末期、こうなりたいか、と。こうも思います。この人たちは何の為にこうなってしまっても生きているんだろう、と。

介護には様々な形があって、麻痺などで生活支援をしてもらわなければならなくなった人、リハビリが必要になった人もいれば、認知症の進行によって、生きる事自体に支援が必要不可欠になる人もいます。例えば麻痺で歩行が以前のように出来なくなった人が、何としても前のように歩きたい、と強い意志を示される場合には、そうした気持ちに応えるべく介護が支援をする必要があるし、介護職の存在意義があるのだと思います。

認知症の進行によって、自分の意思はおろか、言葉自体を発する事も出来なくなり、ご飯も自分で食べられない、糞尿は垂れ流し、風呂にも入れず、ただ生きているという表現にしかならない人の場合はどうなんでしょうか。建前として、自分で出来ない事を寄り添って支援するのが介護で、その人の生活の手伝いをするという点で介護職の存在意義はあります。

ですが、冒頭の「自分が認知症になっても平気か」という疑問に立ち返ると、介護職の存在意義が吹き飛ぶ可能性も否定出来ません。

 

 

僕は、いや、俺そんな状態になっても生きてたくねーもん。

 

 

近くで常々見ているから、余計にそう思います。

 

 

 

自分ではどうしようもない病になってしまったのだからこそ、親身になって利用者に寄り添っていかなければならない、とは言いますが、自分ならどうだろうと考えると、親身になって寄り添うんなら、意志を尊重してくれるのなら、自分の事を真剣に考えてくれてるのなら、とっとと安楽死させて欲しいと願うでしょう。

本人の意思の尊重だとか、意向を汲み取るというのが基本なわけですが、正確にいえば「死ぬ」という選択肢を消されている時点で、生きる事前提、制限された選択肢の中での自由しか許されていないんですよね。

 

 

思えば、「死ぬ」という選択肢のなさが介護殺人なんて社会問題を引き起こしているように感じます。だって、生きるしかないんですもん。生きるしかないから、支援するしかないんですもん。それが介護者たる家族を苦しめて、追い込んで、挙句殺人者にまでしてしまうわけで。

あるいは介護職の人間が親身になって、心を込めて、熱心に、自己犠牲を払ってまで、その利用者の為に尽くすという事がかえって家族を追い込んでしまう可能性も否定出来ません。これだけやってくれるんだから、自分もしっかりしなければ、と。

尽くした分だけ自分に返ってくるなんて、完全に介護職のエゴですもんね。

 

 

「死ぬ」という選択肢がない事は介護保険制度自体を苦しめているのが今回の改定で分かりました。そりゃ死ねないんだもん、どこまでも誰かが介護するしかない。その結果として要介護者が増えて財政を圧迫してしまいました。

こんな状態になる前に死にたい、と考える人にとっては、望まない介護をされ、社会保障の名の下で不必要かもしれない人に対してお金を掛けて介護保険を適用し、そうした中で一般的な年収より低い賃金で介護をする人がいる。何とも言えない気分になります。

 

 

ここまでのこんな感じの事を、この記事を読んで考えていました。


「能率的に死なせる社会」が必要になる | Books Review | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト

 

 

能率的な死、ですか。認知症になるのなら、認知症で家族を、周囲を苦しめるのなら死にたい、と考える人も少なくはないでしょう。僕は尊厳死は肯定しています。認められてはいませんが。認められていない以上、仕方なく生きるしかないと考える人もいない事はないでしょう。そしてそうした意思は認知症の進行によって消え去り、ただ生きるだけになるのです。

絶対的に介護が必要な人がいるのと同じように、介護なんて本当なら必要ない、される前に死にたかったと考えている人もいるのだという、少し引いた目線をどこかで感じながら介護していかなきゃいけないだろうな、と今は感じています。