介護士こじらせ系

Bandcampとユマニチュードが気になる介護職の雑記です。

死の多様性に応えられる、多様な支え方が存在する社会にならなければならない

昨日気になったニュースを羅列していて記事の更新後引っかかるように残ったのがこちらでした。


2015年1月30日(金)「単身高齢社会 “ひとり死”への備え あなたは」|金曜eye|NHK@首都圏

 

この”ひとり死”、まだまだ数が少ない、あるいは認知度が少ないが故にサポート出来る体制が行政などにはなく、そうした隙間をNPOが埋めている状態ですが、これからはこうした”ひとり死”のように、家族に見守られて死ぬ、とか、施設で職員に見守られて死ぬ、といった”理想的な死に方”からはみ出る人が増えるだろうし、そうしたはみ出す事が異端ではなく、選択肢の一つとして出てくるのではないか、と思うのです。

 

”理想的な死に方”、という表現をしました。多分、自分がどう死ぬのが幸せかと考えた時に最も多く出てくるのは「自宅で家族に見守られて、眠るように」ではないでしょうか。住み慣れた場所で、長年添い遂げた家族とともに最期の時を過ごす、というのが分かりやすい幸せの形だと考える人は多いでしょう。

施設で職員に見守られて、というのを理想に挙げたのは僕が介護職だからという補正が入るからでしょうが、整ったシチュエーションで見守られながら、というのは前者と共通する部分です。

 

でも、これがいつまでも全ての人にとっての理想になり得るのかと言ったら、必ずしもそうではないのでは、と思っています。

 

そもそも何故このような話題を持ち出したかというと、介護が在宅で、という方向性になればなるほど、家族が世話をする、という前提が強まっていくような気がするからです。今だってもちろん独居の高齢者はたくさんいるし、成年後見人制度を使ってサポートしてもらっている人がいる事は当然分かっています。というかうちの施設にいるしね。でもあくまでそれは、家族がいないから、という家族がいる事が前提に立っている考え方からのサポートじゃないですか?家族がいる、という範疇から外れてしまっている人を支える、という考え方ではないですか?

 

 

僕が今独身だから、というのがありますが、一人で生活し続けた時の死に方とはなんだろう、と考えてしまいます。そんな僕の例に限らず、例えばあえて結婚しない、という選択肢をとった人の理想の死とはなんでしょう?そうした人にとっては、大多数の人が考える家族に見守られる、という選択肢はそもそも生まれる事はありません。托卵など局面局面での選択肢を考えない限り、自分の子どもは作れません。

選択的に子どもを作らない夫婦はどうでしょう?あるいは、男性または女性の身体的な理由によって子どもを作る事の出来ない夫婦はどうでしょう?

家族に見守られながら死ぬ、というのが理想として存在し続けるのであれば、そうした夫婦は身体的にも経済的にも苦しい不妊治療を続けたり、あるいは養子をとるなどしてなんとか家族を作らなければならないんでしょうか?選択的子無しを否定するつもりは全くありませんが、そうした方たちは人生設計の中で自分の人生の終わり方をどの程度まで想定して子どもを作らないという選択をしているのでしょうか。

 

 

利用者の意思の尊重というのを介護では常に考えます。いや、介護に限らず福祉分野であれば全てにおいてそうですよね。その人がどうしたいかを勘案して、実現出来るようにサポートするのも重要な仕事の一つです。

人生は自己決定の嵐ですが、その結果としてその人がどのように死ぬ事になったとしても最期までサポートされるべきなのではないでしょうか。

 

 

とあるドキュメンタリーでかつて女子プロレスラーとして活躍した選手が、同じような境遇の人が集まる老人ホームを作るのが夢、と語っていたそうです。それぞれの境遇を理解出来る仲間と人生の終末期を過ごしたい、という側面が感じられますが、これは必ずしも特殊な考え方だとは思えません。

 

人の繋がりが多様化し、かつ緩やかに様々な形で繋がる今の社会では、家族といる事が一番の幸せではない、という人が少なからず出てくるはずです。あるいは、家族を作らない、作れないという人にとっても。

そうなった時に、最期の時をどう過ごすのがベストなのか、その時をどう支えるべきかを考慮するのは、個人の意思決定の尊重という考え方からすればごく当然の事と言えます。

 

今でさえ、家族が支えるという形がうまくいっているわけではありません。数十年のスパンでみれば、家族介護という形自体が継続出来るかなんて断言のしようがありません。冒頭で紹介した記事やそこに出てくるNPO団体だけでなく、社会全体が多様な支え方を今から考えるべきなのではないでしょうか。