介護士こじらせ系

Bandcampとユマニチュードが気になる介護職の雑記です。

呆けた高齢者は”退屈だから”食べた後すぐにまた食事をねだるのか?

常識の厄介なところは、物事を考える時にそれ自体が考える事の前提に埋まってしまっているが為に当たり前の物として考える対象に入らない事にあります。全く新しい物や価値観を生み出す人にちょっと変わった人が多いのは、”こうあるべきだ”という常識がその人の考えの前提にないからでしょう。

僕はカチコチな人間だから、なかなか新しい事を生み出すのは向いていないんだろうなあ。

 

何の話かと言ったら、以下の記事からなんですが、


【2014年最高の奇書】不食のすすめ。ー 「食べない人たち」どうすれば人は食べないで生きることができるのか。 - いばや通信

 

食べるという誰もが疑いもしない事をしない、勧める人たちについての本が紹介されていて、まあなかなか簡単に消化出来ない事実だけれども、とりあえずそういう人たちがいるんだなあと感心していて冒頭のような事を思ったんですね。

 

 

そもそも食べるという事自体に疑いの目線を向けるなんて事は僕には出来ないし、第一食べるのも飲むのも大好きなので同意もクソもないんですが、一箇所だけ引っかかる部分が。

私が、この本の中で一番感銘を受けたのは「食事とは、ヒマを潰すための最高の手段である」という指摘だ。 

 

介護現場にいれば誰でも一度は遭遇した事があると思います。食事を終えたばかりの利用者が「食事はまだか」「ご飯が食べたい」と言う場面を。

 

 

そう、確かに”食べる”という行為って、結構集中する行為なんですよね。食事が近いわけでもないのにひたすら食事をねだるような利用者もいざ食べ始まると黙々と食事を摂り始めるし、逆に集中出来ず食べ物で遊ぶ利用者には食事に集中するよう促す介助をしたり。

要するに一つの見方として、介護現場においても暇を潰す、暇を潰させるのに食事は最高の手段になりうるというわけです。まあ確かに、「口が寂しい」なんて言い回しがあるくらいですからね、全般的にとは言いませんが、ある種の正しさをもっているのかもしれません。

 

 

よく、食べた事を忘れたように食事をねだる人については、認知症で満腹中枢が正常に働いていなくて、などと言われますが、正常に働いていない事と常にご飯を欲しがる事って実は繋がっているようで繋がっていないですよね。おそらく介護者がしっかりと気を引いたり出来ていればそうした欲求を抑えられるかもしれないですし、そもそも”食べていない”と感じる事自体、「口が寂しい」僕たちと一緒でどこか退屈を感じているからなのかもしれません。

 

 

この人にはこうした病歴があるから、という情報は事前に対応を考える上で非常に重要なように見えますが、そうした先入観こそが利用者への対応を症状ごとに紋切り型にしてしまう可能性もあります。本当のその人らしさを無視して。

 

 

食事に関連して、その人らしさ、個性という言葉が出てくる時に妙に目の敵にされたり、避けられたりしがちなのが胃瘻です。自分の口から食事を摂取するのは人間らしさを追求するのに重要である、とか、そんな感じです。

でも、そんな胃瘻こそがその人らしさを追求する一番の手段になる可能性だってあります。寝食を忘れるくらいに没頭する趣味がある人にとっては、食事を摂る時間が惜しいと考えるからあまり食事に乗り気になれない、とかね。

 

 

 

食事の例で今日は書いてきましたが、1日3食は当たり前、という常識から抜け出す事が介護として一番の近道になる事だってありえます。一人一人の利用者に向き合うという事は時に、自分にとっての当たり前、常識をどれだけ拭い去れるかが鍵なのかもしれません。

 

 

介護に限らず、どんなにしっかりとした理屈や後ろ盾があったとしても、何でもこういうものだ、これが常識だ、と早々に決めつける事だけは避けていきたいものです。