介護士こじらせ系

Bandcampとユマニチュードが気になる介護職の雑記です。

障がいをもっていようが認知症であろうが同じ人間だから、という時に生まれる差別意識。

認知症予防に散歩が効果的だ、という記事を基にして、うちの利用者を散歩に連れて行く事についての記事を書いたわけですが、改めて特に福祉に関わりのない人が認知症の方をどう見るのか、というのを少し思い出しています。

 

認知症予防への散歩の効果から自分を戒めて。 - 介護士こじらせ系

 

最初は普通に会話していたものの、少しずつ声を荒げ始めた辺りから一気に表情が曇る方、何となく会話が成立したまま結局ちょっと変わった人だ、と見る方、多少理解があり、話を合わせて下さる方など様々でした。

色んなリアクションの方がいらっしゃいましたが、一つだけ言えるのは、その方は認知症だから、という但し書きを全ての人に押し付ける事は出来ないという事です。

全ての人が認知症を始めとする病気に対するある一定以上の理解をする事は重要ですし、実際にそうした人に対してはある程度の寛容な対応をする必要があると思いますが、本人やその周りの介助者がそれを常に周りに押し付けてしまうような対応を取るのはちょっと違うのでは?と思うわけです。

 

昨日本当は記事として取り上げたかったのですが、何せ足りない頭で咀嚼するのに時間がかかりまして。といって今できているのかといえばなんとも言えませんが、こちらの記事から色々と考えを巡らせていました。


「障害者」と「健常者」を、分断から交じり合いへと導くアートの力 - コスプレで女やってますけど by 北条かや

 

あらすじや要約をサラッと書くのは勿体ない気がするので一度読んでもらえれば、と思うのですが、特に僕は「他者性」というキーワードに引っかかりました。

一言で言ってしまえば、「君と僕とは違う人間だから完全に理解する事なんて無理だよね」ってところでしょうか。

 

ところがこれが意外と難しい。人間は他人との共通点を見つける事で安心感を得られる生き物だからです。初対面の人と話すときに出す話題って、どうしても共通点を見つけ出そうとする内容な事が多いじゃないですか。そうやって一つでも重なる点というのを見つけていく事で距離を縮めていこうとするわけで、それが少しずつ重なる事で安心感に繋がっていきます。

 

共通点を見出すというのは、裏を返せば違いを見つける事でもあります。それらは同時進行で行われるものです。同じ点があるからこそ相手の違いを認める事が出来るのです。

 

ところが認知症の方、あるいは障がい者の方も含まれると思いますが、そうした人たちと接した時に、同じように「君と僕とは違う人間だから」と素直に言える人の数はまだまだガクッと下がるはずです。それは、差別してはいけない、というバイアスがかかる事で「君と僕は同じ人間だ」という強迫観念のようなものが働くからです。

そしてその時には共通点を見出す時に同時に起こる違いを見つけるという事がうまくできなくなります。同じ人間でなければならないからです。

ただ恐ろしいのは、障がいをもっていようが認知症であろうが同じ人間である、という地点から先になかなか思考が進まなくなるというところです。同じ人間である、という大まかな共通点を見つけて、そこで終了してしまいます。具体的な共通点には目がいきません。だから例えば、障がい者に性欲があるという、同じ人間であるならばごくごく真っ当であるはずの事実を突きつけられても知らなかった、そうだったのか、と感心させられる人が多いわけです。そうやって覆い隠させる社会問題は結構多いのではないでしょうか。

 

違いを認められない社会は不寛容です。違うという事が分かってこそ、障がい者認知症の人たちについての理解を深めることが出来るようになります。

 

じゃあどうすればいいか。どうなんでしょうね、僕も正解が何かは分かりません。ただ、僕の障がい者の人との原体験は、少なくとも自分にとってヒントになりそうな気がしています。

 

小学生の時、二人身近に障がいをもった人がいました。一人は同級生に。一人は別の同級生の弟に。

 

同級生は、普段の勉強にはついていけないので、授業で同じものを受けることはなかったように思います。もしかしたら、体育とかはいたかもしれません。でも修学旅行とかのイベントには普通に参加していたし、校内を歩いていると普通に一人で歩いていてガンガン色んな人に話しかけています。今思い返すイメージとしては、そういう学級にいたわりに障がい者だから、といった特別な指導を受けた記憶がなく、他の人と同じく同級生の一人だな、という印象です。

 

同級生の弟は、その家に遊びに行くと普通に僕らの遊びに混じってきて、一緒にゲームしたりしていた記憶はあります。ただその事を親御さんから特別指示されたり、あるいは感謝されたりするわけでもなく、当たり前というかごく普通の事として過ごしていた印象が強いです。

 

何というか、両者ともに周りの大人から強要された印象が全くないんですよね。同じでなきゃいけないとか思った事はないんです。ごく普通にそこにいた、というか。今思うと凄いことだなーと思いますが。

引用記事の言葉を借りれば、「交じり合っていた」というイメージが強いです。溶け合っているわけではなく、あくまで交じっていただけで違うといえば違う、というのが分かるといったところです。

 

 

最初の命題に戻りましょう。

本人やその周りの介助者がそれを常に周りに押し付けてしまうような対応を取るのはちょっと違うのでは?」

というのは、こういう感じですけど許してくださいね、と、相手に対して「差別するな」という強迫概念を押し付けることに他なりません。

そりゃあ、差別するなと暗に言われれば誰だってそれなりの対応をして下さると思いますよ。でもその中には理解ある人と、必ずしも理解があるとは言えず、上っ面だけ、最低限の対応だけで終わる人もいるでしょう。後者の場合が問題で、介助者の対応によってはそうした人の差別意識を無意識のうちにかえって増長させてしまうのでは?と思うのです。

 

 

じゃあどうするの?と言われたら、分かりません。何故なら先日の散歩で僕はまさに利用者が絡んだ相手に微笑み、軽く頭を下げる事で寛容な対応を強要していたからです。「俺ダメじゃん!!!」という気持ちが今日こんな文章を書いた一番の理由でもあります。

 

健常者と障がい者、あるいは認知症の人々が交じり合うにはどうすれば、というのは、実際の現場などでの対応に落としこまれる程度に理解するまで、僕の命題としてのしかかってきそうです。