介護に自信を
ここ数日更新サボってしまいました。言い訳ご無用ですよね。情けない。
先日、前の会社の同僚たちと久しぶりに会いました。少し僕は離れてしまっていたのですが、わざわざ訪ねてきてくれました。ありがたいものです。
今の仕事の話になって、皆んな当時の会社は辞めていたのでそれぞれ軽く近況報告をしたのですが、自分が今は介護だ、と素直に言えたのが、小さな話ではありますが自分の中での変化だな、と感じました。前だったら、介護に対しての世間的なイメージとかがなんとなく頭をよぎってしまい、どうも素直に言えなかったのですが、今はそうした周りの目がどうこうよりも、自分がこれだけやっている、とようやく自信をもてるようになってきたのかもしれません。
もっと自信をもって仕事を語れるように、実績を積み上げなければなりません。そこには美辞麗句も意識高い系もポエムも必要ありません。ただただ、目の前の介護からスタートする仕事の集積から自分に自信をつけていくだけです。
明日からも一つ一つ。
要介護になる利用者を家族がどう受け入れるのか。現場はそのサポートが出来るのか。
特に中身はありません。
さて、頭が空っぽになるほどに何もせず過ごした休日でした。上司から借りた介護保険の改正に関する書類を読んだくらいですかね。ダラダラ。
やたらIngressをしていました。この土日は今までで初めてなんですが、リアルキャプチャ、つまり他のプレーヤーに声を掛けられたんです。ビックリ。さらっとですが、話もしました。自分のエリアの現状だとかその方の活動だとか。
こんな事もあってなかなか楽しいわけですが、改めて人と話すって事の大事さをなんとなく感じます。何もせず、特に外出もしなければ声を発する事もないわけですからね。自分で動ける人ならともかく、満足に動けない高齢者なんて自然とストレスがたまるだろうな。そんなごく当たり前の事を実感させられました。
今日は特に中身はありません。そんな感じです。
100歳を迎えた受刑者を諸手を上げて賞賛出来るか
桂米朝さんが亡くなったというニュースは、興味があるとはいえ詳しいだなんてとてもじゃないけど言えやしない僕にも十分響く程に大きなニュースでした。流石に名前は知っていますからね。
生前の映像が映るたびに、なんて良い顔をされているんだろうと強く思わされました。微笑みがそのまま素の表情かのような。もしかしたらそれはあくまで対外的なもの、という事なのかもしれませんが、それにしたっていつまでも保つ事が出来るだなんて凄いものです。
色んな大御所と呼ばれる人たちがコメントを出していて、歌丸さんなんかは76歳の今でも稽古を付けて欲しかったと言っていて、学び続ける姿勢の大事さを改めて感じさせてくれました。あの歳になっても、あのポジションにたどり着いても、まだまだ先にいきたいのだなと。凄いものです。
よく流れていて印象的だったのが、ざこばさんの「綺麗な死に方だった」という会見の映像です。人柄通りだとか、そういった抽象的な物言いはしませんが、最期を穏やかに迎えられたというのは素晴らしい事でしょう。殆ど存じ上げませんが、まずは御冥福をお祈り致します。
ただふと、綺麗な死に方、というのが妙に引っかかっています。その言葉とはおおよそ正反対のこんな記事があったからです。
続きを読む
利用者本位は絶対じゃないからこそ考え抜かなければならない
先日、こんな事がありました。
最近利用がパッタリと止まっていた利用者が、細かい言及は避けますが入院後の措置によってうちの施設の利用が出来なくなったそうです。うちの施設の中では比較的認知などの進行が少ない人で、利用されている時は良い表情をされていたので”なぜ”という言葉が浮かんでくるばかりでした。本人の意思とは違うところで話が進んで結果的にそうなったような印象が強く、その方の事を考えると可哀想、という言葉が出てくるばかりでした。
でもそれはあくまで施設の、現場の介護士の考えでしかなく、家族がそう判断してしまっては手出しなど出来ません。
きっと綺麗事ばかりで見てしまえば家族は責められるのかもしれません。ですが本人以上に介護する家族が疲弊し、実際に体調を崩していたそうで。それでは意味がありません。最終的には自分を大事にするべきだとも思うので、この決断自体は一つの答えとして間違いではない、と思いました。
ただ一つの事象として、ある程度自分の意思表示が出来るのにも関わらず、自分の意思とは関係のないところで自分の治療や介護の方向性が決められていくという事の恐ろしさを少し感じました。実際にされたら自分はどう思うのだろう、とも。
介護とはそういったものが必ずつきまとうものなのかもしれません。どんなに介護士が利用者の事を考え抜いたとしても利用者の事が家族の事情によって軽んじられ、強制されているかのように利用者の方向性が決められていく事が。
自分たちがする、出来る限りの介護はあっさりと消え去っていくものなのかもしれません。それでも、次、次、次へといかなければならないな、とどことなく思うのでした。
介護報酬の引き下げ分が利用者にそのまま請求されてしまっているとか
今週は代休の影響から正社員ではないかのようなシフトでして、今日休みだったのですが明日出勤したらまたお休みでして、どことなくペースが掴みにくい状況です。
さて、先日Twitterで見てビックリ、唖然としたTweetがありました。直接の引用は避けようと思いますが、大まかな内容としては
「介護報酬が引き下げだから施設維持出来なくなるし、下がる分実費で請求するけどよろしく」
と施設から通知がきた、という内容でした。ちょっと斜め上過ぎて、逆に「その手があったか」と思わされたくらいに驚きでした。
これだけ見ると、施設の怠慢に見えるかもしれません。僕もそんな立場ではないにしても、どうやって引き下げられた分を補填するかは考えていましたが、そのまま実費で利用者に請求するとは予想外でした。考えもしなかった。でもこれは、案外に根深い問題なのかもしれません。単に施設だけの問題ではない、という意味で。
続きを読む終わりのライフログ
僕は終わりが感じられたからそれに応じた行動をして、だからこそ今回結果としてあまり後悔の念を感じる事はなかったのですが、他の人はどうだったのだろう、と振り返り、考える夜です。
漠然とここが終わりかな、と感じるとそこから逆算して行動が出来ます。介護であれば、その起算点から先は何もありませんから、訪れるであろう起算点に対してやれる事を出し惜しみせず行う事が出来ます。勿論、状況は一転するもので、こちらが勝手に想定する起算点なんてものはいくらでも変動してしまいます。ですが、近づけば近づくほどおおよその予測は可能です。終わりの知らせは悲しかったけれども、後悔はなかった。
あの時これが出来ていれば、こうしてあげられればという感触がなかったという事です。これから先に訪れるであろう、梅や桜が咲き誇る並木道を連れて出歩く事も、青々とした木々を眺める事も、梅雨の少しの間の晴れ間に紫陽花を手にとって淡い色彩に触れる事も、ジトッとした汗をかきながら街の片隅の向日葵の鮮やかさに目を奪われる事も叶わないのですが、先の叶わなかった楽しみは他に傾ければ良い事。
様々な介護の形がありますが、こうした仕事をしている以上、終わりを悟ったのであれば思いつく限りの事は出し惜しみせずにいたいものです。
利用者が亡くなる時、介護士として、淡々とやり過ごすべきでしょうか、それとも一人の人間として悲しむべきでしょうか。
僕は、こうした疑問に常に答えを出せず揺れ動くうちが正解なのだろうと感じています。ただ悲しむうちは介護士として未熟だと思うし、淡々とする事は感情の死を意味すると思いますから。
悲しむ自分と理性的にやり過ごそうと思う自分が揺れ動きながら徐々に落ち着くべきところに落ち着いていくのが良いのかな、とは今のところの思うところです。
きっとその時、人、タイミング、自分の行動によってその落ち着くべきところは都度変わってくると思います。地味ながらもやれるだけの事を出来たかな、と思えた今回は比較的淡々とした感情ではありました。だからこそ、今の自分に妙な慣れを感じてしまって、それはそれでダメだなとも思います。
せっかくのブログですから、その時々の気持ちの移り変わりをライフログ的に残していくのも一つなのかな、と思うのでこれからも似たような事を書いていくかもしれません。